第62話  Linda Lewis 『Not a Little Girl Anymore』 (1975) U.K.

今夜の一曲  This Time I'll Be Sweeter


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 あれは1995年、もうかれこれ20年ですか。「世界初CD化!」のかけ声と共に、日本で再発された1972年作、『Lark』(ラーク)。ようやくリンダ・ルイスが身近な存在になった思いでしたね、あの頃。

 5オクターブの声域がウリの『ラーク』。ホントよく出来たアルバムだったけど、リプリーズ(Reprise)を離れてアリスタ(Arista)からリリースされた第5作『Not a Little Girl Anymore』(愛の妖精)(1975)も捨てがたいんです。シングル・カットされたベティ・エヴェレット(Betty Everett)の大ヒット作「It's In His Kiss (Shoop Shoop Song)」も、全英6位を記録しました。


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 キュートで可憐なイメージは、US盤のジャケ写真そのものです。しかも、ハミンバード(Hammingbird)系のミュージシャンが、がっちりサポートしてます。マックス・ミドルトン(Max Middleton)のフェンダー・ローズが秀逸。

 マックス・ミドルトンは、第二期のジェフ・ベック・グループ(Jeff Beck Group)の核となるメンバーです。リンダのアルバムには相当貢献していて、お得意のローズ・ピアノだけでなく、シンセサイザーやクラビネット、チェレステなど、いくつも聞き所を用意してくれます。




 リンダはジャマイカ人の血筋を引く英国人。タレント養成校にいた関係で、ビートルズの映画『Hard day's Night』で「きゃー」と騒ぐファン役で出演しています。作詞・作曲お手の物の人ですが、本作ではオリジナルは4/10曲のみ。再発盤はボーナス付きで、そちらの方は6/8曲が自作曲でしたが。


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 リンダと聞くと、どうしてもジム・クリーガン(Jim Cregan)を連想しちゃいます。当時は熱々の夫婦でしたね。ジム(g)はブロッサム・トウズ(Blossom Toes)~ジュリー・ドリスコール(Julie Driscoll)~スタッド(Stud)~ファミリー(Family)~スティーヴ・ハーレー&コックニー・レベル(Steve Harley & Cockney Revel)と、栄えある表街道まっしぐらの人でした。

 さすがのリンダも、ソロ・レコーディングだけでは食っていけなかったようです。ソロ活動と並行して、セッション・ヴォーカリストとしても活躍しました。例を挙げると、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)、リック・ウェイクマン(Rick Wakeman)、キャット・スティーヴンス(Cat Stevens)、ロッド・スチュワート(Rod Stewart)、アル・クーパー(Al Kooper)、スティーヴ・ハーリー(Steve Harley)、ハミングバード(Hammingbird)etc.


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 友人のCさんは、かつて、キャット・スティーヴンスのコンサートで、バック・コーラスに加わったリンダとの邂逅を果たしたそうです。うらやましい~。仏像ジャケの『仏陀とチョコレートボックス』(Buddha And The Chocolate Box)の頃でしょうか。当時の帯には「来日記念盤」とありますね。


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 さてさて、いよいよ今回の夜話の核心部。話題は、キャットの「想い出のスクールヤード」(Remember The Days Of ) The Old Schoolyard。この曲は、元々リンダに提供した曲でした。これはリンダがキャットの『Catch Bull At Four』(1972)に協力したのがきっかけ。その後リンダは、キャットの Bamboozle tour(1974)に同行しています。

  でも、1977年になり、キャット自身が『Izitso』を録音した時、「想い出のスクール・ヤード」で、彼がデュエットの相手に選んだのはリンダじゃなく、威勢のいい姉御ヴォーカリスト、エルキー・ブルックス(Elkie Brooks)でした。あれれれ。


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 リンダの目指していたのはハリー・ニルソン(Harry Nilsson)、ジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)でしたから、確かにエルキー・ブルックスとは路線が違います。キャットの求めていたものが、リンダにはなかったのでしょうか。


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 しかし、もっと不可思議なのは、この曲のプロモ・ビデオなんです。この動画の男女の掛け合いのメリー・ゴー・ランドのシーン。ここに登場しているのは、エルキーではなく、リンダじゃありませんか!なのに、歌声はエルキーだ!要するに、リンダがリップシンクしてるわけ?

 一体、何が起こったんでしょう。下世話な話ですけど、深読みするのも面白い!?(汗;)






Vocals, Backing Vocals / Linda Lewis
Electric Piano, Clavinet, Celesta [Celeste], Synthesizer / Max Middleton
Electric Piano, Synthesizer, Organ / Jean Roussel
Keyboards / Derek Smith
Organ, Synthesizer [String] / Duncan MaKay
Drums / Richard Bailey
Drums, Percussion / Gerry Conway
Percussion / Jack Jennings, Phil Kraus, Ted Sommers
Congas / Carlos Martin
Guitar / Jeff Miromov, Jerry Friedman, Lance Quinn, Robert Ahwai
Bass / Bob Babitt, Clive Chaman, Philip Chen
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第61話  Marion Maerz 『I Go To Sleep』 (1967) Germany

今夜の一曲  I GoTo Sleep


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 レイ・デイヴィス(Ray Davies)のこの曲のカバーは数多くあれど、これは変わり種。ドイツのガールズ・ポップ・シンガーのマリオン・マヤッツ(Marion Maerz)によるカバー。

 それにしても、このプロデュースがラリー・ペイジ(Larry Page)だとは気づかなかった。なるほど、キンクス(The Kinks)・トロッグス(The Troggs)つながりで納得。しかも、ドイツのみならず、英国でもシングル・リリースされてたとはね。ドイツ人女性としては、初めてビート・クラブ(Radio Bremen's Beatclub)で歌ったんだって。




 マリオンは1964年ハノーヴァー(Hannover)で、ペプシ・コーラ(Pepsi Cola)主催のタレント・コンテストで発掘されました。4曲歌ってコンテストの結果は第二位だったものの、ポリドールからレコーディング契約をオファーされます。1965年、彼女は本名のマリオン・リターシャイト(Marion Litterscheid) 名義で、二枚のシングルをリリースしますが、不発に終わります。

 契約を失ったマリオンですが、作曲家クリスチャン・ブルーン(Christian Bruhn)と作詞家ギュンター・ローズ(Günter Loose)との出会いが縁で、ハンサ・レーベル(Hansa)との契約に成功。Marionの名前で「Er ist wieder da」をリリース。これが全独6位のヒットを記録し、トップ10に10週ランクされました。オーストリアではチャート第2位の大ヒット。


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 ポール・マッカートニーの「マリオンの曲が好きだ」と言うコメントが知られています。特に「Er ist wieder da」のB面の「Blau, blau, blau」がポールのお気に入りだったようです。

 しかし、マリオンの絶頂は余りに短く、その後は大きなヒットに恵まれません。そんな中、1967年にレイ・デイヴィスの書いた「I Go To Sleep」を英独でリリース。チャートを賑わすことはありませんでしたが、このシングルは今では立派なコレクターズ・アイテム。


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 その後も意欲的に活動を続けますが、マリオンは与えられた歌を歌わされることに嫌気がさしていたそうです。1970年代に入り、マリオンはMarion Maerzの名前で再起を図ります。

 そしてリリースされたのが、バート・バカラック(Burt Bacharach)&ハル・デイヴィッド(Hal David)のカバー集『Singt Burt Bacharach』(バート・バカラック・ソングブック)(1971)。マリオン・フリークにとってはマスト・アイテムでしょうが、さほど話題になりませんでした。


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 プロデューサの ジークフリート・ロッホ(Siegfried E. Loch)の選曲した全12曲、全てドイツ語の訳詞をつけて興味深い仕上がりです。著名な訳詞家のミヒャエル・クンツ(Michael Kunze)を招き、アレンジャーとして、クラウス・ドルディンガー(Klaus Doldinger)のコンボでジャズ・オルガンを弾いていたイングフリート・ホフマン(Ingfried Hoffmann)を起用します。

 バカラックの秀逸なメロに乗るマリオンの魅惑的な歌唱にとろけそうになります。が、やはりバカラックやディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)の個性に負けてる。当たり前だけど・・・


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 その後、マリオンは子育て(娘マーシャMashaは、後に歌手デビュー)のために音楽の世界から身を引きます。しかし、後のインタビューを読むと、その決断を決して後悔していないようです。

 マリオンは70年代末に復帰して「Es War Nur Der Sommerwind」(1978)をヒットさせました。歌手、そして女優のマリオンは、インタビューの時点(March 2003)では、ハンブルクでバセット・ハウンドのポール(Paul)と悠々自適の生活のようです。

 ドイツのガールズ・ポップはフランスやイタリアなどに比べて、あまり紹介されてこなかったので、色々とヤブをつついてみると、予想もしなかったような宝石が飛び出します。時には、ヤブをつついてヘビが出ることもありますが(笑)。


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 とりわけ面白いのは、1989年にベルリンの壁が打ち砕かれるまでの東ドイツ(GDR)の存在。当時のドイツ民主共和国(東ドイツ)がどのように西側を意識していたかがほの見えて、興味は尽きません。私が好きなのは、イナ・マーテル(Ina Martell)とか ブリギット・アーレンス(Brigitte Ahrens)。

 ブリギットがアミーガ(Amiga)に残した初期の三枚は、とりわけレアで東独ギャル・ポップ・シーンのコレクターズ・アイテムです。

 まぁ、このあたりを探っていくと、泥沼状態ですね(笑)

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<第60話 The Kinks - I Go To Sleep へ>

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ジャンル : 音楽

第60話  The Kinks 『Kinda Kinks』  (1965)  U.K.

今夜の一曲  I GoTo Sleep


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 ザ・キンクスの代表曲が何かは、議論百出かと思いますが、この曲はわたし的には心に響く曲。レイ・デイヴィス(Ray Davies)がピアノで弾き語るデモ曲。キンクスとしてレコーディングされることはありませんでした。彼らのセカンド『カインダ・キンクス』のボーナス・トラックとしての収録です。

 デモのクオリティながら、とろけるようなラヴ・ソングです。この曲は当時の妻、Rasaの出産を待ちわびて、「生まれてくる赤ちゃんのための子守歌」として書き上げたというイメージでしょうか。

 レイはこの曲を、大好きなペギー・リー(Peggy Lee)に贈りました。キンクスが全米ツアーに出る直前のことです。


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 このデモを元に、ペギーが歌った曲が『Then Was Then...Now Is Now』(1965)に収められています。ペギーも、この曲はかなり気に入っていたようです。

 同年、UKポップ・グループのアップルジャックス(The Applejacks)がカバー。ベーシストがMegan Daviesと、デイヴィス姓だったために、「レイの姉か!?」という噂が流れました(苦笑)。事実、デイヴィス一家は女系で、レイの兄弟のうち、年長の4人は全員女性だったという話です。


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 同じく、1965年、シェール(Cher)の姉御がこの曲をカバー。


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 しかし、もっと驚いたのが、プリテンダーズ(The Pretenders)のクリッシー・ハインド(Chrissie Hynde)によるカバー。『Pretenders II』(1981)に収録され、プロモ・ビデオも震っちゃう出来でした。

 英国の若いロック・ファンたちは、プリテンダーズのこのカバーによって、レイ・デイヴィスを再評価した人が多かったのではないでしょうか。英国では、シングル部門第七位まで上昇しました。

 にわかに信じられなかったのは、クリッシーがレコーディング時には、ペギー・リーのバージョンも、シェールのバージョンも、一切聞いた事がなかったという話です。ほんまかいな。

 クリッシーによると、キンクスの最初の三枚のアルバムの版権を持つ会社から、1965年のレイのデモを収めたカセット・テープを受け取っただけだと言います。普通に考えるとちょっと信じがたい話ですが、ソースはインディペンダント誌(Independent)なので、あながち一笑に付すことはできません。




 クリッシーとレイの間には、ナタリー(Natalie)という名の娘が生まれています。2人は正式に結婚しようとして、結婚届を提出しに行っています。しかし、2人が口論しているのを見て、役所の係官が婚姻届の受け取りを拒否したという話が伝わっています。やれやれ。

 クリッシーはベジタリアンで、熱心な動物愛護運動家。彼女の「マック(McDonald's)に爆弾を仕掛けろ!」という過激な発言はよく知られています。娘のナタリーも活動家で、警察当局に逮捕されたほどのアクティビスト。

 レイとクリッシーはやがて破局を迎えます。1984年、クリッシーはシンプル・マインズ(Sinple Minds)のリード・シンガー、ジム・カー(Jim Kerr)と結婚。

 2007年のこの写真は興味深いですね。真ん中がChrissie Hynde(55)。左がレイ・デイヴィスとの間に生まれたNatalie Rae Hynde(24)。右がジム・カーとの間に生まれたYasmin Kerr(21)です。 残念ながら、クリッシーはジムとの関係を1990年に精算してしまいますが・・・


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 そうそう、クリッシーはかつてジャーナリストとしても活躍しています。ブライアン・イーノ(Brian Eno)やスージー・クアトロ(Suzi Quatro)へのインタビュー記事があると聞きました。

 ところで、レイとクリッシーの間に生まれたナタリーが逮捕されたという話に戻りましょう。罪状は、天然ガスの掘削に関連する「問題行動」(当局の表現)でした。

 ナタリーが反対したのは、石油会社によるシェール・ガス(Shale Gas)の掘削に関して。ナタリーはガスを採取するための「水圧破砕法」(フラッキング/Fracking)に対しての抗議活動を行っていました。

  「水圧破砕法」というのは、天然ガス採掘のために、地層中に大量の水と化学物質を高圧で注入する手法です。このやり方による地下水の汚染が以前より懸念されていました。会社側は、「地下水の汚染はない」と言明しているものの、汚染された蛇口からの水がマッチの火で燃え上がるという事案が発生しています。

 地下水の汚染以外にも、大量の水使用による開発エリアの水不足や、人工地震などが懸念されています。この水圧破砕法という手法に対する反対を訴えるために、2012年8月29日、アーティストやジャーナリストたちが立ち上がりました。(Artists Against Fracking)




 一例をあげると、ショーン・レノン、ジュリアン・レノン、オノ・ヨーコ、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、ロバータ・フラック、レディ・ガガ、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、ビースティ・ボーイズ、ジャクソン・ブラウン、グレッグ・ローリー、デヴィッド・バーン、ジョー・ウォルシュ、ロバート・デ・ニーロ、トッド・ラングレンなどなど。

 それにしても、大きな話題になったのが、水圧破砕法を援護して反対派を封じ込めてきたエクソン・モービル(ExxonMobil)のCEOのレックス・ティラーソン(Rex Tillerson)が、自分が経営するテキサスの農場近くで水圧破砕が行われると聞いて、その計画に反対する訴訟に加わったという報道でした。

 でも、これは人ごとではありません。本年春、秋田県の男鹿で「水圧破砕法」によるシェール・ガス採掘の試みが始まりました。エネルギー確保と環境汚染、どちらを取るかは思いっきりデリケートな問題ですね。


<第61話 Marion Maerz - I Go To Sleep へ>


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Ray Davies / lead vocals, backing vocals, rhythm guitar, piano
Dave Davies / lead guitar, backing vocals, lead vocal
Pete Quaife / bass guitar, backing vocals
Mick Avory / drums

テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第59話  Morgan 『Brown Out』 (1973) U.K.

今夜の一曲  Fire In The Head




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 あの頃、中古盤屋の店頭には『Brown Out』のカット・アウト盤がごろごろしていました。購買意欲も全く湧かず。おまけに、あまりなジャケットに引いてた私(フィッシャーさん、ごめんなさい)。

 それでも、勇気を振り絞って(笑)一聴してたまげた。アグレッシブでカラフルなアナログ・キーボード群が、パワフルなリズム・セクションに乗って、踊る・踊る。ハモンドにエレピにVCS3が大活躍。これは痛快だ!

 その頃、EMS(Electronic Music Studios)が初めて国産(英国)のシンセサイザーを開発しました。それが、VCS3です。キング・クリムゾンが『Lizard』(Dec. 1970)の「Happy Family」でマイクロフォンで拾ったVoをVCS3を通して加工し、リスナーを驚かせましたね。ピンク・フロイド(Pink Floyd)の『狂気』(The Dark Side Of The Moon)(1973)でもお馴染みです。


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 モーガン・フィッシャー(Morgan Fisher)もすぐにVCS3を取り入れた音作りを始めています。しかし、こうしたアナログ・シンセは電圧の変化に弱かったし、プログラム・メモリーがなかったので、ギグは修羅場でした。

 フィッシャーは曲と曲の間に、ヘッドフォンを使って音を調整したり、ベースのイントロやドラムスのブレイクを長くしたり、ティム・スタッフェル(Tim Staffell)にアコギで弾き語りしてもらう間にセッティングして、切り抜けていたようです。

 さて、フィッシャーの経歴を見て見ましょう。彼はラヴ・アフェア(Love Affair)を経て、自身のバンド、モーガン(Morgan)を結成。なかなかグループ名が決まらない中、苦肉の策でシンプルに自分の名前を使って、命名しています。事実、作曲クレジットのメインはフィッシャーですので、説得力はありました。

 面白いことにVo,Gのティムは、あのスマイル(Smile)出身です。スマイルのメンバーはティムに加え、ブライアン・メイ(Brian May)とロジャー・テイラー(Roger Taylor)。言ってみれば、クイーン(Queen)の前身バンドです。ティム脱退後に彼の穴を埋めたのが、フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)。それに伴い、スマイルはバンド名をクイーンと変えました。


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 モーガンのデビュー作は、ホルストの惑星をテーマにした『Nova Solis』(1972)。第二作が『Brown Out』(1973)。この二枚は、ローマを本拠地とする、イタリアRCAでレコーディングされています。そのため、マーキー・ムーン社の『ユーロ・ロック集成』(1987)には、イタリアン・ロックのカタログ中にリスト・アップされていました。(VoがRobert Sapsedという記載は誤認でしょうか )

 8トラックが主流の当時において、RCAには最新鋭の16トラック・レコーダの装備がありました。ニーノ・ロータ(Nino Rota)がフェリーニ(Federico Fellini)の映画のための音楽をレコーディングするスタジオだったと、フィッシャーのウェブサイトには書かれています。

 RCAからのリリ-スについての真相は、ドラマーのモリス・ベーコン(Maurice Bacon)の父親のシド(Sid)絡みでした。シドはマネージャを兼ねていて、コネを持つイタリアの某ハンドバッグ製造会社を通じ、RCAとの契約を実現させています。英国のレーベルより契約の条件が良かったそうです。さらにイタリアのレーベルは、当時プログレ・バンドに手厚かったことも理由にあげています。

 さて、デビュー作は賛否両論。セカンド・アルバム『Brown Out』も、RCAがリリースに難色を示してお蔵入り。これがリリースされたのは、パスポート/Passport(US)によってで、哀れにも1976年のことでした。その後、チェリー・レッド/Cherry Red(UK)がレーベル・リリース第一弾として1978年に再発。以後、チェリー・レッドとフィッシャーとの長いつきあいが始まります。


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 本作の『Brown Out』とは、米国の一部地域では「停電」を意味する俗語とか。でも、フィッシャーは別の意味で名付けたそうです。インサート用に、メンバーがズボンを下げてお尻を出し(Mooning)、カメラマンに撮らせたそうです。

 カメラマンは困惑したそうですが、撮影は終了しました。しかし、出来上がった写真を見たRCA側は、ただただ沈黙するばかりだったそうです。タイトルが『The Sleeper Wakes』と変えられてしまいます。レコーディングは完結させてもらえたものの、結局、陽の目を見ず。

 フィッシャーはバンド解散後、活動の場を求めて、サード・イアー・バンド(Third Ear Band)を経て、モット・ザ・フープル(Mott The Hoople)へと移籍しました。

 フィッシャーは1982年にはスマイルつながりで、Queenの欧州ツアーでkeyを担当して旧交を温めました。そう言えば、クイーンはモット・ザ・フープルの前座を務めたこともありましたね。

 現在の情報には明るくありませんが、フィッシャーは長きにわたって日本に滞在し、日本のTVのCMを一杯手がけていて驚かされます。日産、パナソニック、資生堂、サッポロビール、SONY、JAL、セイコー、JR、カネボウ化粧品、NHK、オリンパス、コカ・コーラ、三菱などなど。

 私的には、『ミニチュアーズ』(miniatures)(1980)に針を落とした時の脳天を貫かれたような衝撃は、いまだに忘れられません。


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Tim Staffell / vocals, libretti
Bob Sapsed / Fretless bass
Maurice Bacon / drums, percussion

テーマ : プログレ
ジャンル : 音楽

第58話  The Millennium 『Begin』 その2 (1968)  U.S.

今夜の一曲  5 A.M.

<その2>カート・ベッチャー/栄光と挫折


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 さて、ザ・ミレニアムだ。このバンドはカート・ベッチャー(Curt Boettcher)が1966年に組んでいたザ・ボールルーム(The Ballroom)を母体とするバンド。厳密な表現ではないが、このバンドがサジタリウス(Sagittarius)とザ・ミレニアム(The Millennium)に分派する。いずれもカートを中心とするスタジオ・プロジェクトだった。

 カートはアッシャーの紹介でコロンビア(Columbia Records)に移籍し、アソシエーション(The Association)や、人気ポップ・シンガーのトミー・ロウ(Tommy Roe)のプロデュースで成功を収めていた。


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 1967年、彼が声をかけたメンツも才能豊かな人物ばかり。マイケル・フェネリー(Michael Fennelly)を含め、これまで彼がコラボしてきた有能なソング・ライターやLAトップ・レベルのセッション・マンたち。作曲やヴォーカルもお手の物。後に作家としてデビューする人物もいる(Sandy Salisbury)。かくして、カートのプロジェクトが始動した。

 しかし、こいつは難産だった。最新鋭の機材を駆使し、複雑なヴォーカル・ハーモニーを織り上げていく。注ぎ込んだ膨大な時間と資金。導入されたばかりの16chのMTRを使い倒したらしい。コロンビアは、よくも惜しげもなく資金を提供したと思う。それだけ、カートの才能を買っていたのだろう。

 この布陣で、悪いものが出来ようはずもない。だが、セールスは芳しくなかった。サンシャイン・ポップにカテゴライズするには、あまりに屈折していて難解でSEまみれ。時代が追いついてこなかったのか。


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 みずみずしい感覚で彩られたオープニング曲「Prelude」からステック&フェネリー作曲の「To Claudia On Thursday」への流れから、もう釘付けだ。

 続くカートの「I Just Want To Be Your Friend」は、非の打ち所のないサンシャイン・ポップ。彼にしてみれば、こんなのはお手の物だったに違いない。

 サリスベリーの書いた「5 A.M」は、初めて聴いた時、まさにピーター・ハウエル(Peter Howell)とジョン・フェルディナンド(John Ferdinando)のアジャンクール(Agincourt)のプロトタイプ(原型)だと感じた。ここにリー・メネラウスのボーカルが響くと、いかにもだ。ヘヴンリーで極上のポップスに思わず、うるうるしてしまう。

 カート&マロリーの「Karmic Dream Sequence No.1」では、突然琴の音色が飛び出してぶっ飛ぶ。

 商業的な成功には見放されたザ・ミレニアム。だが、シングル・カットされたステック&フェネリーの「It's You」は、本国でこそチャートに登場しなかったものの、フィリピンではNo.1ヒットになった。


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 まめにツアーをこなしていけば人気に火が付いただろう、という見方もある。しかし、彼らは南カリフォルニアの大学で、一度ギグをこなしただけだった。その辺がワン・ショット的なスタジオ・バンドの限界だったのかもしれない。

 カートはレーベルからの集中的な非難を一身に浴びた。食いぶちを稼ぐため、シングル「Just About the Same / Blight」など、ワン・オフ的な活動に取り組んだ。けれども、当時はビートルズの「Hey Jude」(1968)(9週連続でBillboard No.1)や、メリー・ホプキンの「Those Were The Days」(1968)(Billboard No.2)(UKでは2週連続No.1だった「Hey Jude」を蹴落として6週連続No.1)など、モンスター級のヒット曲が目白押しの時代だった。


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 主流にはなりきれずに、傍流に留まったカート・ベッチャーの足跡。彼を中心として、共同プロデューサで、その後一時代を築くキース・オルセン(Keith Olsen)(The Music Machine出身)や、ザ・ミレニアムの一人一人のメンバーの系図を追いかけると、実にわくわくする。

 時代の脇役を追いかけることでシーンの全体像が見えてくるというのは、あながち大げさとは思えない。それがこの時代の奥深さなのだろう。


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<その1>ブライアン・ウィルソンとカート・ベッチャーをめぐる謎へ


Curt Boettcher / Vocals, guitar,
Lee Mallory / Vocals, guitar
Sandy Salisbury / Vocals, guitar
Joey Stec / Vocals, guitar
Michael Fennelly / Vocals, guitar
Doug Rhodes / Bass, harpsichord, piano
Ron Edgar / Drums, percussion

テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第57話  The Millennium   『Begin』  その1 (1968)  U.S.

今夜の一曲  I Just Want To Be Your Friend

<その1>ブライアン・ウィルソンとカート・ベッチャーをめぐる謎


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 単なるサンシャイン・ポップと馬鹿にできない気品がありますね。この曲、かなり聞き込んだ思い出がある。スリーブ・デザインのアンティークなドイツの木版画が素敵だ。当時のメンバーのマイケル・フェネリーによれば、ジャケットにはザ・ミレニアムが夢みる、前向きな人生哲学(hope for a better time and place)が込められているようだ。

 ザ・ミレニアムの『ビギン』は、カート・ベッチャー(Curt Boettcher)のプロジェクトとして位置づけるべきだろう。彼のメロディ・メーカー、そして重層的なヴォーカル・ハーモニーの才は、有能なプロデューサのゲイリー・アッシャー(Gary Usher)が一目置いていたのもうなずける話だ。

 アッシャーはビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)のブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)の強力なパートナーだった。

 驚いたことに、アッシャーによると、ブライアンがサーフ・ミュージックを捨てたのは、カートとの出会いが発端だったと言うのだ。順を追って説明しよう。

 まず、アッシャーについて。彼は、ブライアンと「409」(1962)や「In My Room」(1963)などの共作者であり、サーフ・ミュージックやホット・ロッド・サウンドの仕掛け人でもあった。またThe ByrdsやPeanut Butter Conspiracyなど、プロデューサ業も波に乗っていた。


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 1997年、サジタリウス(Sagittarius)の『Present Tense』(1968)が再発された。サジタリウスはスタジオ・バンドで、アッシャーがカートの才能を頼りに、制作&プロデュースした。そのブックレットに掲載されたアッシャーの回顧文が、大きな波紋を呼ぶことになる。


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 舞台設定は1966年春。アッシャーとブライアンがLAのスタジオ(Studio Three)に出向いた時、不思議な音を耳にする。その音はカートのスタジオ・ルームから漏れていた。カートは丁度、Lee Malloryの「That's The Way It's Gonna Be」(1966)のプロデュースをしていた。(このスタジオではThe Beach Boyの『Pet Sounds』、The Mamas and the Papasの「California Dreaming」、Scott McKenzieの「San Francisco」などが収録されている)


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 カートの作り出したサウンドを目の当たりにしたブライアンは、まっ青になったと言う。自分よりも「何光年も先んじた音」(light years ahead of him)を創造するカートのセンスに打ちのめされ、その後一週間は、その話ばかりしていたらしい。これがきっかけになって、ブライアンはサーフ・ミュージックに別れを告げたと言うのだ。

 カートの影響力が、ブライアンのその後の音楽志向を決したという説は、今ではタイム・ライン的に齟齬(そご)があるという線で落ち着いている。と言うのも、1966年春というのは、ブライアンがまさに『Pet Sounds』(1966)の仕上げにかかっている時期だったからだ。


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 アッシャーの言葉の引用は1988年のものだ。これは、カートの没後1年にあたる時期だった。そのタイミングから、アッシャーがカートの評価をアップさせるためのストーリーを作り上げたのではないか、というのが定説となりつつある。

 アッシャーは1969年、コロンビア(Columbia Records)を解雇されてから、カートと共に独自のレーベル(Together Records)を立ち上げた。そうした深い関係を背景に、アッシャーは史実を歪めたのだろうか。

 だが、そうとも断言できない興味深い指摘もある。それは、前述のLee Malloryの「That's The Way It's Gonna Be」(1966)に使われたのと同じSEが、後のビーチ・ボーイズの「英雄と悪漢」(Heroes And Villains)(1967)の完全版に登場するという指摘だ。


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 この「英雄と悪漢」は『Smily Smile』(1967)に収録された編集版ではなく、ブライアンが20回にも及ぶ「英雄と悪漢」のパラノイアックなレコーディング・セッションに残した膨大なマテリアルのうち、いわゆる"In The Cantina" Sessionの冒頭のSEを指している。これをどう捉えたらいいのだろうか。(「英雄と悪漢」 のツー・パート・エディット(two-part edit version)のうち、Part Oneの1'55"からの10秒間?)

 アッシャーは1990年に死没している。ブライアンが記憶の糸を辿って証言でもしない限り、真相は闇に葬られたままだろうか。

<その2>カート・ベッチャー/栄光と挫折へ

Curt Boettcher / Vocals, guitar,
Lee Mallory / Vocals, guitar
Sandy Salisbury / Vocals, guitar
Joey Stec / Vocals, guitar
Michael Fennelly / Vocals, guitar
Doug Rhodes / Bass, harpsichord, piano
Ron Edgar / Drums, percussion

テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第56話  Embryo 『Opal』 (1970) Germany

今夜の一曲  Opal


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 何と言ってもゴム風船ツキの変態ジャケですね。オークション見ると、「Perfect Baloon付き」のブツがある。半世紀ほど前の風船が「パーフェクト」であろうはずなかろうと思うのだが、マニア諸氏は、こういうセリフにメロメロである。

 伝え聞くに、1980年代はじめにして、既にこの愛すべき風船君は劣化してしなびたり、くっ付いたり割れてしまっていた。私は、見た事も触れたこともありません。まさに伝説です。

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 風船のないやつは、1990年以降、コンスタントに再発のレールに乗ります。友人はイタリアのMateriali Sonoli盤(1990)で手に入れたと言いますが、私はドイツのThink Progressive盤(1997)でようやく手に入れた新参者です。

 興味深いことに、実のところ風船はエンブリオの『オパール』だけじゃなかったらしい。バルーンの特典付きはオール(Ohr)創設期の以下の5作品と思われます。

OMM 56 000 - Floh De Cologne - Fließbandbabys Beat-Show (1970)
OMM 56 001 - Limbus 4 - Mandalas (1970)
OMM 56 002 - Bernd Witthüser - Lieder Von Vampiren, Nonnen Und Toten (1970)
OMM 56 003 - Embryo - Opal (1970)
OMM 56 004 - Tangerine Dream - Electronic Meditation (1970)

 ってことは、仕掛け人はレーベル側なわけね。「さあ、レーベル創設祭で盛り上げようぜっ!」ていうノリか。で、ゲートフォールド・カバーにスロットつけてバルーン付きにしたようだ。実にお馬鹿で楽しい話じゃござんせんか。

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 風船君のカラー・バリエーションはピンクだけじゃなかったとのこと。風船のデザインやテキストにもバリがあったのか、バルーンに「Macht Das Auf」(The Power Is On?)と書いてあったという話も漏れ聞こえてくる。

 いずれにせよ、Ohrのジャーマン・カルト・バンドというだけで卒倒する人もいるでしょう。プロデュースも、あのロルフ・ウルリッヒ・カイザー(Rolf-Ulrich Kaiser)だし。

 この『オパール』、レコードに針落としてみると(死語)、いかにもドロドロした混沌とした香りが危険すぎる。アシッド・ジャズ・ロックって言うのか、サイケデリック・プログ・ジャズって言うのか、どう表現したってあらゆる形容詞を拒否する勢いだ。

 デビュー盤『Opal』(1970)のタイトル曲が今夜の一曲。こいつは二日間で怒濤のようなレコーディングだったと言う。いい意味でも悪い意味でも、時代の空気を閉じ込めたフリーキーな味付け。ここには、後年のようなアフロ・エスニック色はない。

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 リーダーのクリスチャン・ブルヒャルトはマル・ウォルドロン(Mal Waldron)のカルテット出身。アモン・デュール(Amon Düül)の創設メンバーでもあり、フリークス・コミューン出身だった。

 音から漂う匂いはAmon Düül IIの『Phallus Dei』(1969)と限りなく双生児。それもそのはず、クリスチャンは同年Amon Düül IIと袂を分かっている。ここではLudwig Drumsを叩いている。

 加えて七変化する泥沼Gretch Guitarのジョン・ケリー(後にTen Years Afterへ)。変てこなブカブカSaxと Fluteにエドガー・ホフマン、Fender Bassにラルフ・フィッシャー。以上がバンド・メンバー。

 ゲスト陣も一癖も二癖ある連中ばかり。Violin(Motocello)が、後にBetweenに参加するロベルト・ディトレー、BassにAmon Düül IIのローター・マイト(ボーナス・トラックのみ参加)、BongosにPopol Vuhのホルガー・トルッチ、Vocalにベッツィ・アレー。思わずニヤリでしょうか。

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 それにしても、サイケ・フリークスたちのコミューンは、こうやって互いに日常的に出入りしつつ、底なし沼のジャムに陶酔していたのでしょうか。
 
 この奇天烈サウンドを快感に思うか、それとも居心地悪く感じるのかが、ノーマルとアブノーマルを分ける踏み絵でしょうか。突き抜ける爽快感を感じる御仁は、立派なアシッド・フリークだと太鼓判を押して差し上げます。

 今宵はやはり『Opal』(1970)『Phallus Dei』(1969)『Psychedelic Underground』(1969)、地獄の三連発で眠りにつきましょう。心地よい悪夢に包まれて快眠間違いなし。毒を食らわば皿までですよ。

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Christian Burchard / drums, vocals
Ralph Fischer / bass, vocals
Edgar Hofmann / saxophone, flute, percussion
John Kelly / guitar, vocals

+ plus
Bettsy Alleh / vocals
Roberto Detrée / motocello
Lothar Meid / bass
Holger Trülsch / bongos

テーマ : サイケデリック
ジャンル : 音楽

第55話  Fripp & Eno 『Evening Star』(1975) UK

今夜の一曲  Evening Star


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 ジャケ絵を描いたピーター・シュミット(Peter Schmidt)はベルリン生まれの英国人。イーノが通ったアート・スクールの客員講師だった関係で知り合い、交流を続けました。

 二人は創造的作業のためのヒントを得るため、互いにそれぞれがアフォリズムを収めたカード・セットを考案していました。それを知った二人は、それらを元に1975年、オブリーク・ストラティジー(Oblique Strategies)に編み上げたのです。


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 一例をあげてみると、「陳腐な考えで迫ってみよう」(Use an old idea.)「問題点を出来るだけ明確に言葉にしてみよう」(State the problem in words as clearly as possible.)「あなたの親友だったらどう行動するだろうか」(What would your closest friend do?)「何を増やすのか?何を減らすのか?」(What to increase? What to reduce?)「虚勢を張ってみよう」(Try faking it!)などとなっています。

 イーノ・ショップ(Eno Shop)で通常の30ポンドの廉価版(第五版)に加え、1~500のナンバリングの入った500部限定版が販売されています。こちらは、バーガンディ(ワインレッド)のケース入りで60ポンドですね~。
http://www.enoshop.co.uk/shop/oblique-strategies


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 シュミットの作品は、イーノのソロ『Taking Tiger Mountain (By Strategy)』(1974)のカバー・デザインや『Before and After Science』(1977)に収められた四枚の水彩画などで楽しめます。

 今夜の一曲「Evening Star」は、ジャケ絵そのものの、静謐でアンビエントな肌触りのアルバム・タイトル曲。シンセやギターのアルペジオとハーモニクス音のレイヤーの上に、フリップの歪んだギターがコズミックに舞い上がります。


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 本作はフリップ&イーノのコラボ第二作。『No Pussyfooting』(1973)より成熟したイメージがありますが、アルバム全体が全く違った三つのコンセプトの抱き合わせなので、統一感に欠けるのが惜しまれます。

 ただ、最初の数曲のように、瞑想的なテープ・ループやサウンド・コラージュは限りなく個性的かつ魅力的ですね。当時はこうしたアンビエントな曲の書けるアーチストが他にいなくて、これを何度も何度も聞いたものですよ。


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Robert Fripp / guitar
Brian Eno / synthesizer


テーマ : プログレ
ジャンル : 音楽

第54話  Gino D'Eliso 『Il Mare(海の詞)』 (1976) Italy

今夜の一曲  Non E' Solo Musica


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 イタリアン・ロックの全貌がほぼ解明されてから、コレクターの関心は、プログレの影響下にあるカンタウトーレたちの隠された名盤探しへと向かいました。

 私はコレクターではありませんが、かなり苦労して輸入盤を手に入れただけに、思い入れは深いものがあります。無作為にあげてみても、Franco Maria Giannini『Afresco』(1974)、Amedeo Minghi『same』(1973)、Mario Barbaja『Megh』(1972)、Gian Pieretti『Le Vestito Rosa Del Mio Amico』(1973)、Ninni Carucci『Il Buio La Rabbia Domani』(1973)、Paolo Frescura『same』(1978)、Gianni D'Errico『Antico Teatro Da Camera』(1975) などなど、枚挙にいとまがありません。

 ジーノ・デリーソ(Gino D'Eliso)は、エジソンの1990年再発によって公式に日本で紹介されました。邦題『海の詞(ことば)』。センシティヴなヴォーカルが、飛翔感のある繊細でドリーミーな演奏に乗って駆け巡る展開。ムーグやアコギ、フルートがひたすら美しい。


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 時折見せる地中海音楽的な要素が印象的。こうした素養は民族のDNAに刷り込まれているのか、PFMやイル・ヴォーロ(Il Volo)、アンジェロ・ブランデュアルディ(Angelo Branduardi)、ファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De Andrè )らの曲を聴いても色濃く感じる事があります。

 本作のプロデュースは、アルバム中でフルートやサックス、キーボードを披露するクラウディオ・パスコリ(Claudio Pascoli)ですが、パンゲア(Pangea)と違って、さらに全面に出ています。パスコリのキャリアと言えば、PFMの『パスパルトゥ』(Passpartù)も忘れてはいけません。

 ジーノは学生時代には哲学や応用心理学を志し、イタリアのスロヴェニアン・マイノリティのための放送局(RTV Capodistria)でディレクターを務めながら、音楽の才能を活かしてミュージシャンとしての活動を開始しました。


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 残念ながら、セカンド以降はポップ化が進行します。やはり、1976~77年前後はいわゆるプログレにとって、一つのターニング・ポイントだったようです。ジーノの作風は、時代の波に揉まれて、Funk、Disco、New Wave、Electro Pop...と、ありとあらゆる音楽スタイルを吸収していきます。

 それでも、ジーノをバックアップするミュージシャンたちはそうそうたる実力者。セカンド『Ti Ricordi Vienna?』(1977)(RCA)では、元レアーレ・アッカデミア・ディ・ムジカ(Reale Accademia Di Musica)のフェデリコ・トロイアーニ(Federico Troiani)がキーボードでサポートしています。

 サードの『Santi & Eroi』(1979)には、ヴァイオリンにルチオ・ファッブリ(Lucio "Violino" Fabbri)(PFM)、ベースにボブ・カッレロ(Bob Callero)(Osage Tribe, Duello Madre, Il Volo) と、パオロ・ドンナルンマ(Paolo Donnarumma)(Claudio Rocchi, Roberto Colombo, Gianna Nannini, Alice, Mina)、 サックスにクラウディオ・パスコリ(Claudio Pascoli)(Pangea, PFM)らがバックアップ。

 ジーノ・デリーソはルチオ・バッティスティ(Lucio Battisti)のヌメロ・ウーノ(Numero Uno)からのリリースだったので、早くからその存在は耳にしてましたが、さすがに入手困難でしたね。友人などは、大枚はたいて買った直後にエジソンのリリースがあってショックを受けたと言ってました(笑)。


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Gino D'Eliso / vocals, acoustic guitar, keyboards
Claudio Pascoli / flute, sax, keyboards
Fulvio Zafret / drums, percussion
Paolo Donnarumma / bass
Goran Tavcar / electric guitar
Dario Capello / bass on "Il mare"

テーマ : プログレ
ジャンル : 音楽

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ticca

Author:ticca
 音楽ネタを中心とした雑記帳です。

 60年代後半から70年代にかけてのワールドワイドなロック、ポップス、プログレ、アシッド、サイケ、フォーク、ジャズロック、ジャズなどの話題を主に、ひっそりメモってます。

 それぞれの記事はその時々のフィーリングで書いていますが、基本形はある曲をきっかけに感じた雑感が題材になっています。

 私は単なる音楽愛好家ですので、記事に関しては、思い込みや勘違いがたっぷりあることかと思います。その点はご容赦願います。もし、お気づきの点があれば、ご指摘下さい。

 個人的に思い入れのあるものを主に綴っていますので、マイナーかつ気まぐれなセレクション、お許し下さい。

 それでは、今宵の音楽夜話におつきあい下さい。

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