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第70話  The Beach Boys 『Friends』 (1968) U.S.

今夜の一曲 Friends


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 どうして、これほどキラキラしたお友達ソングが作れたのか。当時の暗雲たれ込めるアメリカ社会の陰鬱を考えると、それが不思議で仕方ありません。彼らがスタジオ入りしたのは1968年1月。レコーディングを終えたのが同年4月末でした。

 1月、米国はテト攻勢(Tet Offensive)に踏み切りました。ベトナム戦争は泥沼化していきます。2月にはベトナム戦争の指導方針を巡って、マクナマラ国防長官(Robert Strange McNamara)がペンタゴンを去り、4月には公民権運動やベトナム反戦運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, Jr.)牧師が暗殺されます。そして6月、ロバート・ケネディ(Robert Francis Kennedy)の暗殺・・・

 ヒッピー文化という破天荒なサブカルチャーが台頭したのも、時代の持つ閉塞感と無縁ではないと思います。

 こういう時代だからこそ、これほどピュアでジェントルなアルバムが作れたという見方も出来るかもしれません。ここには革命も流血も政治もない。混迷を窮めるアメリカ社会の激動と混迷を目の当たりにしたがゆえに、人間同士の相互愛を歌い上げたのでしょうか。彼らはラブ&ピースとは違う立ち位置で、我が身と世界を見つめていました。


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 もっとも、彼らには彼らの事情もあったようです。『スマイル』(Smile)(1967)も『ワイルド・ハニー』(Wild Honey)(1967)も撃沈した後で、何とか体勢を立て直す必要があったのです。ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)に頼りすぎないよう、グループとしてのエネルギー・レベルを高める必要もありました。

 そんな事情の中で各メンバーの力量を高める方向に作用したのが、本作の制作過程であり、その結果、共作が格段に増えています。また、カール・ウィルソン(Carl Wilson)やデニス・ウィルソン(Dennis Wilson)の飛躍的な成長も見て取れる快作となりました。

 ただ、商業的には全く成功しませんでした。米国本国ではビルボード126位という惨憺たる結果。しかし、英国では13位まで上昇しています。彼らの不人気を象徴する出来事が、ニューヨークのスタジアム(Singer Bowl)で予定されていたコンサートのキャンセル事件でした。

 聞くところによると、キャパ16,000のところ、800人しかチケットが売れなかったという話です。これでは興行的には成立しません。それほど売れなかった時代の作品にもかかわらず、本作は、実に切なく愛くるしく、彼らの卓越したメロディ・センスが楽しめるアルバムになっています。


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 今夜の一曲は、ワルツ形式のミドル・テンポの「フレンズ」。キャッチーなメロディが一捻りしたコード進行の中で光る名曲となっています。カールのヴォーカルも、お家芸とも言えるハーモニーも、非の打ちどころがありません。

 これだけの作品を作れる彼らを、どうして当時のキャピトルは見捨てようとしていたんでしょう。恐らく当時は、他に魅力的でフレッシュで、革命的なサウンド・メイキングに長じたグループが、雨後のタケノコ状態だったんでしょう。レーベルとしては、破たんしかけの古いグループにしがみつく必要を感じていなかったのです。

 実はこの時期(2月)、マイク・ラブ(Mike Love)はマハリシ・マハシュ・ヨギ(Maharishi Mahesh Yogi) に心酔して超越瞑想(Transcendental Meditation)の研究のためにインドのリシュケシュ(Rishikesh)入り。同行のメンバーはビートルズ(The Beatles)やドノヴァン(Donovan)たち。

 従って、レコーディングはマイク抜きで行われ、最終段階のヴォーカル・セッションはマイクがドタ参する形で行われたようです。レコーディングはブライアンのホーム・スタジオで行われました。

 こういうのをサイケ・ポップと言っていいのかわかりませんが、本作のデヴィッド・マクマッケン(David McMacken)によるスリーブ・デザインは、当時の彼らの理想とする音楽の形をよく伝えています。

 『Friends』(1968)。時代の狭間に咲いた可憐な花。決して時代のあだ花ではなかったと確信しています。


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Al Jardine – lead, backing and harmony vocals, guitar
Bruce Johnston – lead, backing and harmony vocals, piano
Mike Love – lead, backing and harmony vocals
Brian Wilson – lead, backing and harmony vocals, hammond organ
Carl Wilson – lead, backing and harmony vocals, guitar
Dennis Wilson – lead, backing and harmony vocals, drums

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Marilyn Wilson – harmony vocals on "Busy Doin' Nothin'"
Carol Kaye – bass guitar
Al Vescovo – guitar





次回の音楽夜話は、紆余曲折のあった英国のこのグループ。アドレナリン出っぱなしの疾走感のある一発(1977)をどうぞ(笑)
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テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第69話  Tito Schipa Jr 『Io Ed Io Solo』 (1974) Italy

今夜の一曲 Alberto, Un Millennio Se Ne Va


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 ポップ・オペラの前作『オルフェオ9』(Orfeo 9)のスタイルを離れ、カンタウトーレのスタイルで歌い上げる1974年作。プログレッシブな感性がみずみずしい。落ち着いていて、それでいてシアトリカルな表情も見せる組曲が際立つ。

 ティート・スキーパ・ジュニアのメランコリックなヴォーカルを、心を解き放つようなオーケストレーションがしっとり包んでいく。さすが、ビル・コンティ(Bill Conti)。各楽器が自己主張しすぎず、バランスよく配置されていてアレンジの妙に舌を巻く。

 バックを固めるミュージシャンが技巧派ぞろい。一例を挙げるとdsのルジェッロ・ステファーニ(Ruggero Stefani)は、ルオヴォ・ディ・コロンボ(L'uovo di Colombo)、サマディ(Samadhi)でプレイ。もう一人のdsのウォルター・マルティーノ(Walter Martino)は、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ(Reale Accademia di Musica)、ゴブリン(Goblin)、リブラ(Libra)でプレイした腕利き。


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 ギタリストのロベルト・ガルディン(Roberto Gardin)は、ラコマンダータ・コン・リチェブータ・ディ・リトルノ(Raccomandata con Ricevuta di Ritorno)、ベーシストのクラウディオ・バルベラ(Claudio Barbera)は、リブラ(Libra)でもプレイしています。

 キーボードのファビオ・リベラトーリ(Fabio Liberatori)の好演も見事だ。ファビオは映画音楽の世界でその鬼才ぶりを発揮しただけでなく、イタリア音楽界の重鎮、ルチオ・ダルラ(Lucio Dalla)のアルバムにも抜擢されています。

 本作『Io Ed Io Solo』(1974)は、前作と比べ、商業的な成功こそ収めませんでしたが、ティートの珠玉のメロディ・センスが楽しめる名篇となっています。個人的には、彼の主要な作品群の中でも、苦労の末に手に入れたという点で、最も印象深いアルバム。ピエトロ・パスクッティーニ(Pietro Pascuttini)のジャケットがこれまた渋い。

 この後、ティートはオペラ様式に戻った3枚組の大作『Er Dompasquale』(1980)をリリース。これは、19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家、ガエターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)の「ドン・パスクワーレ」(Don Pasquale)をティート風に解釈したフォーク・ロック・バージョン。ルチオ・ダルラ参加。


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 第4作『Concerto Per Un Primo Amore』(1982)も私のお気に入り。うっとりするような色香に充ち満ちています。ティートがようやく自身のオペラ作品をモノにしたという印象。加えて、バックを固めているのは、あのHorusですから。


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 Horusは、その活動時期にはリアル・タイムでアルバム・リリースに至らなかったグループです。イタリアン・ロックがほぼ解明されてから、昔レコーディングされながらお蔵入りになった音源の発掘が始まりましたね。これもその一つで、メロウ・レコード(Mellow Records)から1993年に陽の目を見た、Horusのシングル+demo曲集(1978)です。


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 現時点での最終作『Dylaniato』(1988)は、ボブ・ディランの8曲の歌をティート自身がイタリア語に翻訳した企画ものです。アポテオージ(Apoteosi)のマッシモ・イダ(Massimo Idà)のサポートを得ています。批評家によっては1988年のベスト・ヨーロピアン・アルバムに選定されたと、ティートのHPに紹介されています。


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 その後彼は、作曲家、アレンジャーとしても活躍。映画音楽やロック・オペラを書いたり、オペラのディレクタのみならず、俳優までも務めています。また、ボブ・ディランやジム・モリソン関連本の翻訳、ラジオ作家、父でもある大御所、ティート・スキーパの伝記を手掛けたりと、まさにマルチ・タレントぶり。

 20代にして、既に免許皆伝の腕前だったティート。驚くべきは、いまだ涸れぬ創作への衝動だ。




Tito Schipa Jr. / vocals, piano
Fabio Liberatori / keyboards, Moog
Nicola Di Stasio / electric guitar
Roberto Gardin / classical guitar, bass
Mario Fales / acoustic guitar
Carlo Civilletti / bass
Claudio Barbera / bass
Roberto Cimpanelli / sax
Walter Martino / drums
Ruggero Stefani / drums


 さて、次回の音楽夜話。1968年、殺伐たるアメリカ社会に射した一条の光。私の好きなバンドの一つをご紹介します。

第35話 Tito Schipa Jr. 『Orfeo 9』 (1973)へ

テーマ : プログレ
ジャンル : 音楽

第68話  Terje Rypdal 『Bleak House』(1968) Norway

今夜の一曲 Dead Man's Tale


Bleak House


 ECMのイメージの強いテリエ・リピダルですが、彼の原点の一つをここに見たり、という感じ。1968年の1stソロ『ブリーク・ハウス』(Bleak House)は北欧ジャズ・ロックの重要作。

 核心は、その枠からはみ出たようなオープニング曲「Dead Man's Tale」!こいつがまた、震っちゃう。テリエのギター、フルート、ヴォーカルも味があるけど、クリスチャン・レイム(Christian Reim)のオルガンも言うことなし! と、早くも無駄にミーハーぶりを発揮する私。

 北欧独特のクールな音空間の支配する後年のアルバム群と違って、本作はまだ当時の空気を映して、新しき時代への胎動を感じさせます。整理のつかない混沌があまりにエロティック。このあたりは文章になりにくい部分なので、表現に逡巡するところ・・・そう言って文章力の無さをゴマかす私がここにいる(汗;)


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 テリエはマルチ・インストルメンタリストだったんですねぇ。幼少からピアノ、トランペットには親しんで来たようですが、最終的に彼が選んだのはギター。しかも、独学。才能ある人がうらやましいぜっ。

 もともと彼は、ザ・シャドウズ((The Shadows)や、ザ・ベンチャーズ(The Ventures)目指してましたが、ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)に衝撃を受け、スタイルを一変させます。それが形になったのがサイケ・ロック・バンドのドリームズ(Dreams)『Get Dreamy』(1967)。Yeah ! Go! Go! フラワー・チルドレン! ・・・おいおい、大丈夫か、君ぃ。

 1968年には、クラーク/キューブリック(Arthur Charles Clarke / Stanley Kubrick)の『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)の影響を受け、1stソロの作成に入る。これが本作で、盟友ヤン・ガルバレク(Jan Garbarek)の協力も得ています。ロック、ジャズ、クラシックの影響下に作られた本作ですが、そのオープニングがこの恐ろしげな逸品。

 これが何とも言えないマイナー・キー・ブルースなんですが、テリエでないと作れない、北欧独特の透明感のある、透徹したゆらぎ感に満ちているのです。

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 後にテリエは「自身をジャズ・ギタリストだと思いますか?」というインタビューに答え、「No !」と即答しています。そうは言っても、彼はマイルス・デイヴィス(Miles Davis)の『ビッチェス・ブリュー』(Bitches Brew)や、ウェザー・リポート(Weather Report)、マハビシュヌ・オーケストラ(The Mahavishnu Orchestra)の影響を多分に認めていて、目一杯、ジャズのシャワーは浴びていたようです。

 ジョン・コルトレーン(John Coltrane)の『メディテーション』(Meditations)(1966)(Pharoah Sanders とRashied Aliも参加)も好んで聞いたって言うし。後年、ミロスラフ・ビトウス(Mirosrav Vitouš)や、ジャック・ディジョネット(Jack DeJohnette)との共作もリリースし、創作意欲もフル・スロットル状態。『Rypdal, Vitous, DeJohnette』(1979)

 個人的には彼がプロデュースしたノルウェイのルーファス(Ruphus)の『Let Your Light Shine』(1976)も外せないところです。


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 ネット動画にはテリエがジョン・マクラフリン(John McLaughlin)の「Devotion」を演奏しているものがある、とNさんに教わりました。さっそく聞いてみると、Devotionは曲の後半ですね。テリエとの絶妙のコラボで知られるスヴァイヌン・ホヴェンショ(Sveinung Hovensjø) のベースも面白い。フェンダーの6弦ベースかぁ!素直に感動シマス。(Terje Rypdal Trio French TV 1973)

 動画はどうやらina.frで放映されたもの。さすが、INA!(フランス国立視聴覚研究所)。フランスの全ラジオ、テレビの視聴覚アーカイヴの宝庫と言われるだけあって、メジャーからサブカルまで何でもありってのが、ちょいと嬉しかったりする。

 試しに検索してみると、Ina公式チャンネルってのがヒットした。DVDのトレーラ(予告編)ばかりかな、って眉にツバつけたけど、とあるプレイリストが目に留まる。これは面白そう。手始めにエディット・ピアフ(Édith Piaf)の「ラ・ヴィ・アン・ローズ(ばら色の人生)」(La Vie En Rose)を聞いてみた。浸っちゃいますね~。大人だなぁ、わたしも。

 お次は、ミシェル・ベルジェ(Michel Berger)とフランス・ギャル(France Gall)夫妻のデュエット曲「Ca balance pas mal à Paris」を聞いてみよっと。やっぱ、俺ってミーハーだね。


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Terje Rypdal – flute, guitar, vocals
Christian Reim – organ, piano
Terje Venaas – bass
Jon Christensen – drums
Tom Karlsen – drums
Ditlef Eckhoff – trumpet
Kåre Furuholmen – trumpet
Jarl Johansen – trumpet
Kjell Haugen – trombone
Tore Nilsen – trombone
Øivind Westbye - trombone
Frode Thingnæs – trombone, tuba
Hans Knudsen – baritone saxophone
Calle Neumann – alto saxophone, flute
Jan Garbarek – tenor saxophone, fute, bells
Knut Riisnæs – tenor saxophone
Odd Ulleberg – french horn
Frøydis Ree Hauge – french horn





 次回は再び、イタリアものです。ティート・スキーパ・ジュニアの『Io Ed Io Solo』(1974)をメランコリックに聞いてみたいと思います。

テーマ : JAZZ
ジャンル : 音楽

第67話  Marisa Monte 『私のまわりの宇宙』 (Universo Ao Meu Redor) (2006) U.S.

今夜の一曲 「3つの小さな文字」 Tres Letrinhas


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 2008年8月24日、北京五輪の閉会式。ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とレオナ・ルイス(Leona Lewis)が「胸いっぱいの愛を」(Whole Lotta Love)を歌い、いよいよロンドン五輪への期待が高まりました。

 オリンピックの閉会式には、スポーツの祭典ムードを盛り上げるため、次の開催国を代表するアーチストやミュージシャンが招待されます。

 2012年8月12日、ロンドン五輪の閉会式。次回五輪の開催地、リオデジャネイロ紹介のセクションに大きな喝采の花が咲きました。2012年ロンドン大会から2016年リオ大会へのバトンタッチ(Handover)を華々しく、というわけです。

 ステージを盛り立てた一人が、我がマリーザ・モンチ!彼女が歌ったのは「Bachianas Brasileiras(ブラジル風バッハ)」でした。そう考えると、マリーザ・モンチは名実ともに、ブラジリアン・コンテンポラリーを代表するディーバになったという感があります。


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 余談ですが、ロンドン五輪のオープニングにポール・マッカートニー(Paul McCartney)が「ヘイ・ジュード」で花を添え、会場は興奮の渦でした。開会式だけでなく、閉会式にも英国を代表するミュージシャンが続々登場。ブライアン・メイ(Brian May)やロジャー・テイラー(Roger Taylor)、ジョージ・マイケル(George Michael)などなど、見所満載でした。

 主催者側が、ケイト・ブッシュ(Kate Bush)やローリング・ストーンズ(Rolling Stones)にオファーを蹴られただの、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)、エルトン・ジョン(Elton John)、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)はどうしたんだ? だの、色んな憶測が流れましたね。

 ちなみに閉会式の大トリが誰だったか覚えていますか?最大の栄誉に選ばれたのはザ・フー(The Who)!
「Baba O'Riley」~「See Me, Feel Me」~「My Generation」のショート・メドレーに涙した人もいたのでは・・・!?


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 さてさて、マリーザ・モンチです。彼女はオペラの勉強をするために、19歳でイタリアに渡ります。ところが、マリア・カラス(Maria Callas)を目指していた彼女の心にさざ波が立ちました。自分の体に流れるブラジル人の血に気づいたとでも言うべきでしょうか。MPB(ブラジリアン・ポップ・ミュージック)に目覚めた彼女を見そめてEMIとの契約が成立します。

 マリーザの音楽性の懐の深さは、ライブ盤デビュー作『MM』(1989)の選曲にも、よく表れています。アルナウド・アントゥネス(Arnaldo Antunes)をオープニングに選び、ピノ・ダニエーレ(Pino Daniele)、オス・ムタンチス(Os Mutantes)、ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)、ルー・リード(Lou Reed)。アルバムはいきなりブラジリアン・ホット100でNo.1を獲得します。

 彼女のセカンド・アルバム『マイス』(Mais)(1991)は、アート・リンゼイ(Arto Lindsay)がプロデュースを快諾します。ローリー・アンダーソン(Laurie Anderson)、やジョン・ゾーン(John Zorn)、デヴィッド・バーン(David Byrne)、坂本龍一との共演も話題になりました。


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 グラミー賞歌手としてだけでなく、作曲・プロデュースと、まさに才気走る女性。今ではブラジリアン・ポップス(MPB)のみならず、マンギ・ビート(Mangue Beat)を取り入れたり、古典に新しい解釈を加えたりと、八面六臂の活躍ぶりです。

 今夜の一曲「3つの小さな文字」(Tres Letrinhas)は『私のまわりの宇宙』(Universo Ao Meu Redor)(2006)の収録曲です。同時発売の『私の中の無限』(Infinito Particular)(2006)のアレンジには、フィリップ・グラス(Philip Glass)、エウミール・デオダート(Eumir Deodato)、ジョアン・ドナート(Joao Donato)が絡んでいます。

 2011年には5年ぶりの新作『あなたが本当に知りたいこと』(O Que Voce Quer Saber De Verdade)(2011)をリリ-スして、ファンを(そして私を)喜ばせました。

 振り返れば、彼女はこれ迄二度来日の経歴があります。初来日の1992年は『マイス』のリリースに合わせたワールド・ツアーで東京、名古屋、大阪。20007年は『私のまわりの宇宙』のリリースに合わせたツアーの一環で、東京と名古屋。今更ながら行けば良かったと後悔しまくり。地元開催だったのにぃ(涙;)

 ということで、三度目の来日を願いつつ・・・(笑)





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 さて、次回の音楽夜話は、ブラジルから北欧、ノルウェイへと旅を続けましょうか。 

テーマ : 女性アーティスト
ジャンル : 音楽

第66話  Linda Perhacs  『The Soul of All Natural Things』 (2014) U.S.

今夜の一曲  River Of Gold


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 44年ぶりの新作。期待せず、いぶかしく感じながらも聞いてみた。そして、素直に感動した。『パラレログラム』(Parallelograms)(1970)を奇蹟たらしめたのは、あの時代の空気だけではなく、彼女の研ぎ澄まされた感性と、たぐいまれなるインスピレーションのたまものだったのだ。

 スリーヴ写真にも意表をつかれた。重ねた齢(よわい)を隠そうともしない。豊かな人生を送ってきた自負に支えられた泰然自若の表情。彼女を取り巻く宇宙にある万物の美しさが愛おしくて仕方ない、と言わんばかりの暖かい眼差し。その神々しさに眩暈(めまい)さえ覚えた。

 コンサート活動を含め、活発な音楽活動を送るリンダ・パーハックス。彼女のユトレヒトのコンサートの動画(3voor12 Session - Le Guess Who? Festival, 30 Nov. 2013@Mirliton Theater, Utrecht)を見た。そこに気になる一言。彼女は『パラレログラム』を24トラックで録音したと言っている。ステージでは曲の再現が難しいから、助っ人のヴォーカリストを頼んだ、と。

 えっ?ちょっと待てよ。24トラックだって?このアルバムは1970年リリースだったなぁ・・・ってことは、この時代に24トラックはなかった気がする。

 マルチ・トラック録音の歴史を検索してみると、面白いネット資料がヒットした。それが信頼できるものとしてまとめてみると・・・


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 プロ機材の開発時期と、それがスタジオ標準となる時期には微妙にズレがあるのだが、ロック&ポップス界に関しては、おおよそ次のようになる。1960年代半ばまでは、せいぜい2トラック(バッキング)+1トラック(ヴォーカル)。フィル・スペクター(Phil Spector)の「ウォール・サウンド」(The Wall Of Sound)やモータウン(Motown)のヒット曲も、このスタイルが基本だ。

やがて4トラック・マルチ・レコーダが導入される。ビートルズが最初に使ったのは「抱きしめたい」(I Want To Hold Your Hand)(Nov. 1963)が初めてで、その後『リボルバー』(Revolver)(Aug. 1966)も4トラック録音だ。

 驚くことに、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)(Jun. 1967)も、何と4トラックでレコーディングされた。ただし、リダクション・ミックス(UK)<バウンス・ダウン(US)>と言う手法を駆使している。

 少し解説しておくと、これは4トラックで録音したものを、別の4トラック・レコーダの1つのチャンネルにミックス録音し、残り3つの空きチャンネルに新たな録音を重ねる手法だった。


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 このテクノロジーをベースとして派生した技術が4チャンネル・ステレオ・システム(Quadraphonic)だ。ピンク・フロイド(Pink Floyd)の『狂気』(The Dark Side of the Moon)(Mar. 1973)や、マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield)の『チューブラ・ベルズ』(Tubular Bells)(May 1973)等が、このフォーマットでもリリースされた。

 だが、この4チャンネル市場に受け入れられる事はなかった。そうは言っても、現在のホーム・シアターのサラウンド・システムの先駆けとしては評価できるだろう。

 話を戻そう。4トラックに次ぐ8トラック・レコーダが導入されたのはいつでしょう・・・それは1968年。米国で最初に機材が導入された。一例を挙げると、1968年1月。ステッペンウルフ(Steppenwolf)が4トラック録音によるデビューアルバム『Steppenwolf』をリリースした。

 英国はやや出遅れたが、まずアドヴィジョン・スタジオ(Advison Studios)に続き、トライデント・スタジオ(Trident Studios)、アビイロード・スタジオ(Abbey Road Studios)の順で8トラックを設置している。

 ザ・フー(The Who)のシングル「Dogs / Call My Lightening」(Jun. 1968)。ティラノサウルス・レックス(Tyrannosaurus Rex)が『ティラノザウルス・レックス登場!!』(My People Were Fair and Had Sky in Their Hair... But Now They're Content to Wear Stars on Their Brows)(Jul. 1968)。ザ・ビートルズは『ホワイト・アルバム』(White Album)(Nov. 1968)の一部と「ヘイ・ジュード」(Hey Jude)(Aug. 1968)を8トラックで録音している。


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 上下の写真は3M社のM-23 8トラック・レコーダ。1966年から1970年頃まで標準規格としてアビイロードを含む多くのスタジオに設置されていた。また、ジョン・レノン(John Lennon)やピート・タウンシェンド(Pete Townshend)などは、自宅にM-23を持っていたと言う。


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 そしていよいよ16トラックの登場だ。例によってまずは米国で導入された。CBSスタジオ(New York)のアーティストがその恩恵に預かる。ブラッド・スウェット&ティアーズ(Blood Sweat & Tears)の2nd『Blood, Sweat & Tears 』(Dec. 1968)、グレートフル・デッド(Grateful Dead)の『アオクソモクソア』(Aoxomoxoa)(Jun. 1969)など。

 他にもTTGスタジオ(Los Angeles)でフランク・ザッパ(Frank Zappa)が『ホット・ラッツ』(Hot Rats)(Oct. 1969)をレコーディング。ジェファーソン・エアプレイン(Jefferson Airplane)も『Volunteers』(Nov. 1969)を録音している。

 英国が16 trackを導入したのは1969年になってからで、アドヴィジョンやトライデントに導入された。ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレータ(Van der Graaf Generator)の『精神交遊』(The Least We Can Do Is Wave To Each Other)の「After The Flood」(Dec. 1969)も16トラックを駆使して作られた。

 こうして1960年代末~70年代初頭は16トラック全盛の時代となった。1971年にはドルビー・システム(Dolby Noise reduction System)が内蔵され、トライデントではジェネシス(Genesis)やデヴィッド・ボウイ(David Bowie)、クイーン(Queen)の『Queen II』『A Night At The Opera』等が、最新鋭の機材の恩恵を受けている。


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 時代の移り変わりは激しく、1974年にはいよいよ24トラックのマルチ・トラック・レコーダが登場する。そしてその後の32トラックの登場までが、アナログ・レコーダの守備範囲となった。

 これが1990年代になると、デジタル・テープ・マシンが登場。やがてPC制御のハード・ディスク・ドライブの時代に突入することになる。

 いずれにせよ、こうした技術と並行する形で、楽器のデジタル化やMIDI規格、同期、といったテクノロジーが進行していく。音楽の変遷をこうした技術革新と別個に論じることは不可能だろう。ただわかった事は、技術に依存しさえすれば良い音楽が出来るのではない、という事実。

 実際、現在よりも遙かに恵まれない環境にもかかわらず、これまで幾多の優れた音楽が生み出されてきた。ロックの黎明期の1950年代は言うまでもない。サイケデリック時代の扉を開けたザ・ビートルズの『サージェント』(Jun. 1967)は4トラック録音だった。

 神業とも思えるビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)の『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)(May 1966)にしても、せいぜい8トラックの世界。ザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』(White Album)(Nov. 1968)や『アビイ・ロード』(Abbey Road)(Sept. 1969)だってアナログの8トラックで録音されたのだ。


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 話がそれましたが、リンダ・パーハックスの『パラレログラム』が24トラック録音だったかどうか、という話でしたね。リリースが1970年ですから、彼女が幸運に恵まれていれば16トラックを使った可能性は高いでしょう。でも24トラック・レコーダは、まだ存在していなかったのでは?

 よく知られているように、リンダを発掘した人物は、かのレナード・ローゼンマン(Leonard Rosenmann)という著名な作曲家でした。ですから、LAの最新鋭の機材を使った可能性は十分にあります。でも、時代の流れは16トラックだったと思うのです。その頃の録音機材の詳細については、やはり関係者に聞いてみない限りどうにもなりません。

 リンダはユトレヒトのコンサートで、当時を振り返ってこう語っています。「あの頃は愛に満ちた創造性みなぎる時代でした。このアルバムがユニークなのは、時代がそうだったからなのです。」・・・含蓄のある言葉ですね。





Linda Perhacs / lead vocals and all lyrics
Chris Price / vocals, acoustic and electric guitar, keyboards, bass, percussion, programming and effects
Fernando Perdomo / acoustic and electric guitar, keyboards, bass, percussion
Julia Holter / vocals, keyboards
Ramona Gonzalez / vocals, keyboards
Ryan Holquist / drums and percussion
Derek Cintron / cajon
David Goodstein / drums
Eric Summer & Kate Reddish / strings
Kaitlin Wolfberg / strings

<第11話 Linda Perhacs 『Parallelograms』 (1970)へ>


 さて、次回の音楽夜話は・・・2008年、北京五輪の閉会式でジミー・ペイジが「Whole Lotta Love」を演奏し、いよいよロンドン五輪への期待が高まりましたね。そして、4年後の2012年、ロンドン五輪の閉会式に登場したのは、この人、〇〇〇〇・〇〇〇でした。

テーマ : 女性アーティスト
ジャンル : 音楽

<追記> 第31話 「センチメンタル・レディ」の歌詞の謎について

第31話で取り上げた、フリートウッド・マック(ボブ・ウェルチ)の「センチメンタル・レディ」(Sentimental Lady)の歌詞の謎。

14 joys とは・・・?

記事を書いて以降、いくつかわかったこともあるので、<追記>にまとめてみました。

正確に言えば、いくつかわかったことと、ますますわからなくなったことかも・・・です。(苦笑)


<第31話 Fleetwood Mac 『Bare Trees』へ>

テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第65話  The Jimi Hendrix Experience 『Electric Ladyland』 (1968) U.S.

今夜の一曲  Burning Of The Midnight Lamp


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 『ジミ・ヘンドリックス~エレクトリック・ジプシー(Jimi Hendrix - Electric Gypsy)』などの著者として知られるハリー・シャピロ(Harry Chapiro)氏に言わせれば、「この曲は内省的でメランコリックで、ジミはやっぱ色々ためこんでたんだろう~な。」って事になる。真夜中に独りランプを灯し続けるジミの心中の寂寥感や孤独感・・・確かに象徴的ですね。

 レコーディングも思うに任せなかったんだろうけど、ジミは初めてワウワウ試したり、自らハープシコード弾いたりで、チャレンジャーぶり発揮してます。R&Bグループのスウィート・インスピレーションズ(Sweet Inspirations)のコーラスをオーバーダブ。『エレクトリック・レディランド』に先立ち、1967年8月シングル・リリースされています。


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 さて、ジミのセカンド・アルバムまでを担当したマネージャのチャス・チャンドラ(Chas Chandler)を引き継いだのは、マイケル・ジェフリーズ(Michael Jeffreys)。彼には黒い噂がつきまといました。

 ジミは、自分たちがジェフリーズの集金マシーンであるように感じていました。ジェフリーズがグループの稼いだ金を持ってトンズラした、という噂も。ジミは、ジェフリーズとのマネージメント契約を破棄したかったようです。

 そうこうするうち、1970年9月18日。西ロンドンのサマルカンド・ホテルでジミの死が確認されました。彼が発見された部屋は、モニカ・ダンネマン(Monika Dunnemann)の名義でした。モニカはジミと知り合って、まだ数日来の関係。睡眠薬の過剰摂取と、多量のアルコール。吐瀉物(としゃぶつ)による窒息。ジミの検死結果は事故死と結論づけられました。


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 救急隊がジミのもとに駆けつけた時、彼は既にホテルの一室で意識を失っていました。検死官の発表によると、バルビツール系の睡眠薬の過剰摂取。胃だけでなく、肺も赤ワインで満たされていて、嘔吐によって窒息したようです。このバルビツール系睡眠薬というのは管理が難しく、現在は睡眠薬の主流ではありません。

 さて、ジミが没して約40年が経過しようとする2009年5月、とんでもなくショッキングな暴露本が出版されました。それは、事故死と思われていたジミの死が、実はある人物の謀略による暗殺だったという説でした。

 それによると、ジミはマネージャのマイケル・ジェフリーズに暗殺されたと言うのです。著者はジェームズ・タッピー・ライト(James Tappy Wright)。タッピーはアニマルズ(The Animals)のローディーでした。ジミの他にも、アイク&ティナ・ターナー(Ike & Tina Turner)のローディーも務めた人物です。


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 タッピーの著書『ロック・ローディ(Rock Roadie)』(May 2009)によると、1971年ジミの死後、タッピーとジェフリーズの二人が飲んでいた時、ジェフリーズが「実は、ジミを殺したのは俺なんだ。」と告白したと言うのです。

 これまでにもジェフリーズのイカサマ師ぶりが取り沙汰されていましたが、ジミも契約関係を精算したいと考えていました。一方、ジェフリーズは自分が新しいマネージャにすげ替えられるのではないかと懸念していたようです。そこで犯行に及ぶ直前に、$2,000,000の生命保険をかけた上で、ジミを暗殺したと言うのです。

 ジェフリーズがタッピーに語った話によると、ジェフリーズはギャングを使って一握りのスリーピング・ピルを赤ワインでジミの口に流し込んだと言います。

 しかし、その後1973年3月5日、ジェフリーズはイベリア航空機の衝突事故でフランス、ナントの上空で事故死してしまいます。さらにジミと懇意だったモニカも、1996年になって排ガス自殺。ジェフリーズは本当にジミを暗殺したのでしょうか。真相を知る術は完全に断たれたように思われますね。


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 そうこうするうち、タッピーの『Rock Roadie』に対する反論が現れました(2011年5月musicradar)。ジミの暗殺説はタッピーが著作を売るためのデタラメだと言うのです。タッピーによる「ジェフリーズのジミ暗殺説」に異議を唱えたのは、ジェフリーズのビジネス・パートナーのボブ・レヴィン(Bob Levine)でした。ジェフリーズがジミのUKマネージャとすれば、レヴィンはUSマネージャ。

 タッピーとレヴィンは60年代から交流がありました。タッピーは、自分のロック界での経験をもとに本を書くためには、何か強力なウリが必要だと感じていました。彼は情報を求めてレヴィンに相談を持ちかけました。そして蓋をあけてみると『Rock Roadie』に「ジェフリーズがジミを殺した」という記事が載っていたのです。

 レヴィンは、ジミの死はあくまでも公式見解通りの事故死だと言明しています。ジミは、翌日ドイツに発つために、睡眠を取りたかったようです。ジミは不眠に悩んでいて、この夜、モニカがジミに睡眠薬を渡しています。これに、赤ワインによる酩酊が加わり、ジミの死亡の原因となったのだと推論しています。


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 レヴィンによれば、ジミが亡くなった時、彼は一人でモニカは不在。誰が救急車を呼んだかわからないと言っています。でも、レヴィンの証言とは逆に、現場のサマルカンドのフラットにいたモニカが救急車を呼んだ、とも言われています。いずれにせよ様々な証言が入り乱れて、事実は混沌としています。

 ジェフリーズがジミにかけた保険についても「エージェントがスターに保険をかけるのは当然のことだ。」としています。一例として、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)に、彼のセルフ・レーベルであるリプリーズ(Reprise Label)が、高額の保険をかけたことを挙げています。

 さて、レヴィンはタッピーに「どうしてあんなデタラメを書いたんだ。」と詰め寄りました。タッピーは「私の主張に反論できる人は誰もいないよ。ミッチもノエルもチャスも死んでしまったし。」と語ったとか。確かにモニカも自ら命を絶っていますから。

 レヴィンは次のように疑問を呈しています。「当時、救急救命にあたった主治医のジョン・バニスター(Dr. John Bannister)が、40年後の今になって、なぜ突然見解を変えたのかわからない。どうして『他殺もあり得る』として、タッピーに同調したのか。」と。レヴィンは「作り話は、ジミやファンの人たちにも申し訳ないではないか。」と締め括っています。


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 さて、死の前夜にジミと共に飲んでいたマーマレード・レーベル(Marmalade)のミュージシャン達のうち、シンガー・ソングライターのメイク・スティーヴンス(Meic Stevens)が興味深い事を述べています。ジミが何と「パイント・グラスの赤ワインにラガーを混ぜてちゃんぽんで飲んでいた。」と言うのです。しかも「ジミはこれまで一度も赤ワインを飲んだことがなかったのに。」と。

 さて、ここで疑問が生じます。胃も肺も髪の毛も赤ワイン漬けだったのならば、なぜ検視官の報告では、血中アルコール濃度が標準値だったのでしょう。しかも、主治医のジョン・バニスターと共に救急救命にあたったマーティン・サイファート(Martin Seifert)医師も「アルコールの臭いは全く検知しなかった。」と証言しています。

 ジミは死の前夜、メイク達と別れて、さらにハシゴ酒をしたようです。その後、モニカの送迎でフラットに帰宅してからの行動を追ってみましょう。ジミは帰宅後の3:00AM、サマルカンド・ホテルでフィッシュ・サンドとコカ・コーラを飲んでいます。

 医師達がジミの体内に見たのは赤ワインではなく、コカ・コーラだったのでしょうか。また、「溺死」の原因となった左肺の中の400mlの液体は一体何だったのでしょう。現在では、公式の検死結果が明らかになっていますが、何が真相なのか、ますますわからなくなってきます。


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 唯一、彼の死がヴェスパラックス(Vesparax/睡眠薬)と関連しているという事は否定できない事実です。「アンフェタミン(Amphetamine)でハイになったのをVesparaxで鎮めようとした」という説には、賛否両論あるようです。いずれにせよ、ジミは6:00AM~10:00AMに大量のVesparaxを摂取しました。

 通常、半錠から1錠が適量であるのに、彼は9錠も飲んでいます。この量はまさに3~4時間後にはフィニッシュの世界です。6:00AM、睡眠不足が続いていたモニカもVesparaxを1錠飲んでいます。そして眠りからさめた彼女がタバコを買いに出た10:00AMまでの間に、どうやらジミはパッケージの残りのVesparaxを全錠飲んだようです。そして、モニカが11:00AMに戻った時、あってはならない惨事が起きていた・・・

 ジミはなぜ、9錠ものVesparaxを飲んだのか。一説によれば、彼がこれまで飲み慣れていたのはマンドラックス(Mandrax)。これはVesparaxに比べて致死量は32錠。ジミが両者を取り違えたという説もあります。


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 その後、証言台に立った人も、インタビューごとに話が変わったりする始末。さらなる検証を加えようとしても、40年前の当時を知る人も限られてきています。

 いずれにしても、オーバードース(overdose)と吐瀉物による窒息死、これは変わらぬ事実。加えて、ジミはマリファナ、LSD、アンフェタミンを常用していたし、おまけにアルコール依存。ジミを巡る最後の日々は、追えば追うほど霧に包まれます。迷宮の出口を見つけるための鍵は、永遠に見つからないのかも知れません。

 ウィキ(Wikipedia)ってみると、エリック・バートン(Eric Burdon)の談話として「モニカから『ジミの様子がおかしい』と電話があり、すぐ救急車を呼ぶよう促したが『部屋にドラッグがあるので呼べない』との返事だった。」という記載があります。このあたりのニュアンスにも様々なトーンがあります。たとえば、次のような検証もあります。


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 モニカはジミのかかりつけ医の電話番号が知りたくて、友人のジュディ(Judy Wong)に電話したのですが、ジュディも知らなかった。そこで、別の友人アルヴェニア(Alvenia Bridges)に電話しました。でもアルヴェニアも知らなかったので、アルヴェニアはモニカに「すぐ救急車を呼ぶように。」と助言しています。

 その時、アルヴェニアと一緒に居合わせたエリック・バードンが、突然電話口に出てきて「心配するなよ、ジミが目覚めるまで待てばいいんだよ。」と言ったとか。モニカが「いや、やっぱり救急車を呼ぶわ。」と返したところ、エリックは「じゃ、クソ救急車でも呼べばいいさ。」と応じた模様。これはあくまでもモニカの証言ですが。

 後に、エリック・バードンは次のように言ってます。「『ジミは大丈夫だよ。』って言ったんだけど、その後『じゃ救急車呼んだら?』って言ったんだ。」「ジミはいつも昼まで起きてこないから、起こしたって仕方ないし。でも、モニカがパニクってたから『起こしてコーヒー飲ませたり、顔に水をぶっかけてみたら?』って言ったんだよ。」


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 アルヴェニアはこう言っています。「それからモニカは、ジミのギターをどこかに隠したのよ。ギターの中にはカンナビスが隠してあったと思うわ。それがバレると大変でしょ。黒人が倒れてたって事だけじゃすまなくなるし。」当時はまだ人種差別感情も甚だしい時代でした。救急救命医のジョン・バニスターも二人の関係を好奇の目で見ていたらしい。

 この後、ジミの死を巡って様々な調査が行われている間にも、ジミの書いた遺書めいた詩をもとに、エリック・バードンによるジミ自殺説が飛び出して噂が噂を呼んで、事態は紛糾します。

 いずれにしても、探れば探るほど、関係者の言い分は肝心な部分ですれ違います。まさに、事実はヤブの中。モニカの証言も二転三転した末に、最後はメルセデスの中で排ガス自殺するという悲劇を迎えてしまいました・・・



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 一つだけはっきりしていることは、ジミの死によって幸せになった人なんていない、という事です。ジミ本人も含めてね。

 ミュージシャンに限ったことではありませんが、精神的なストレスやプレッシャーに起因する心の隙間を薬物に頼って埋めたくなる人の心の弱さほど悲しいものはありません。インスピレーションを得るためだとか、新しい次元の創造力に浸るためにだとか・・・どれもこれも全て方便のように聞こえます。心と体の健康を代償にするだけの価値あるものなんて、所詮この世にありませんよね。

 *本稿の内容は、もちろん私個人で調査したものではありません。たまたま手元にあったいくつかの資料をベースに、私見をまとめあげたものです。思い込みや勘違い、偏向の類いも多々あると思いますので、これも一つのストーリー・テリングとして捉えて下さい。




Jimi Hendrix / guitars, vocals, harpsichord, keyboard
Noel Redding / bass
Mitch Mitchell / drums


 それでは、次回はリンダ・パーハックス(Linda Perhacs)を題材に、マルチ・トラック・レコーディングの歴史などをひも解いてみましょうか。ひも解けなくて、こんがらがってしまう気もしますが・・・(笑)

テーマ : 洋楽ロック
ジャンル : 音楽

第64話  Soft Machine 『Live At The Paradiso 1969』 (1995) U.K.

今夜の一曲  Have You Ever Bean Green?


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 第37話・第38話に引き続き、またまたソフト・マシーンの登場です。今夜の一曲は「Have You Ever Bean Green?」。実は、この曲、これ迄いくつかの疑問点を感じていました。歌詞はこうです。

Thank you Noel and Mitch(ノエル、ミッチ、ありがとう)
Thank you Jim for our exposure to the crowd(ジミ、大観衆の前で演奏させてくれてありがとう)
And thank you for his coattails Mike you did us proud (マイク、おかげで自信が持てたよ)
Didn't you? (ほんとだよ)

①まず、歌詞の背景にあるもの。
②次に、タイトルの謎。
③最後に、歌詞中のMikeとはラトリッジのこと?


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 ①最初の疑問はたやすく解けますね。1968年、ソフト・マシーンはジミ・ヘンドリクス(Jimi Hendrix)の前座としてUSツアーを敢行。歌詞にあるように、多くのオーディエンスの前で演奏する栄誉に預かっています。歌詞にノエル・レディング(Noel Redding)、ミッチ・ミッチェル(Mitch Mitchell)、ジミ・ヘンドリクス(Jimi Hendrix)が実名で登場します。

 ②次に「Have You Ever Bean Green?」のタイトルの謎。本来はbeanではなくbeen。でも、beanはgreenの縁語なので、恐らくユーモアでbeanと表記したのでしょう。発音も全く同じですから。

 さらに、green =「未経験の・未熟な」を意味します。これはexperienced =「経験を積んだ・経験済みの」の反意語ですね。この曲がジミ・ヘンドリクスに感謝を捧げる歌である事を考えると、すぐに連想するのは「Are You Experienced?」です。なるほど、この曲は名実共にジミの持ち歌に対するアンサーソングだったんでしょう。


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 この曲の作者はヒュー・ホッパーです。クレジットには、アレンジがロバート・ワイアットで、ロバートが歌詞を書いているようです。

 友人のN98さんから有力な情報を頂きました。驚愕のCDリリース『Robert Wyatt '98』(ロバート・ワイアット '68)(2013)のライナーによると「Have You Ever Bean Green?」は、ヒュー・ホッパーがワイルド・フラワーズ(The Wilde Flowers)時代に書いた「Have You Ever Been Blue?」という未発表曲に、ロバート・ワイアットが歌詞を付け加えて「Rivmic Melodies」の一部としてデモ録音したものだそうです。へぇ、blueとgreenの言葉遊びもあったとは深い!ちなみに「Thank You Pierrot Lunaire」も、ヒューがワイルド・フラワーズ時代に書いた「When I Don't Want You」にロバートが手を加えたもの。

 ロバート・ワイアットは、二度目のUSツアーの後、一人米国に残り、TTGスタジオ(LA)やレコード・プラント(NY)で、ひっそりと「Rivmic Melodies」を含めたデモ音源を残していました。レーベルがソフト・マシーンの継続を強く望んだのも、「Rivmic Melodies」のデモを聴いたためだとか。N98さん、ありがとう!


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 ③さて、最後の疑問点です。歌詞中のMikeとは誰なのか。ひとつ前のトラックは「Thank You, Pierrot Lunaire」で、これは間違いなく、マイク・ラトリッジの事を歌っています。それで私は「Have You Ever Bean Green?」 のMikeというのは当然ラトリッジ(Ratledge)の事だと思ってました。

 でも、そうすると歌詞に一貫性がないように思われます。Noel, Mitch, Jimと来て、最後に「Mikeのおかげで」と言っているので、これはひょっとしたらジミ・ヘンドリクスのマネージャだったマイク(マイケル)・ジェフリーズ(Michael Jeffreys)のことかも知れません。

 ソフト・マシーンとジミは、一緒にUSツアーを組んでいたので、ソフト・マシーンはマイケル・ジェフリーズと何らかのマネージメント契約を結んで、ロードに出ていたものと思われます。そう考えれば歌詞に整合性があります。マイケルはアニマルズ(The Animals)のマネージングも担当した人物です。

 さて、次回は、そんなマイケル・ジェフリーズにつきまとう黒い噂と、ジミ・ヘン暗殺の真相に迫りたいと思いますが、迫りきれないかもしれません(笑)。まぁ、自分に甘いのが自分の取り柄なので、看板倒れになってもお許しを。


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<補足①>
『Live At The Paradiso 1969』は、『Third』(1970)でジャズ・フォーマットに移行する前夜の、アムステルダム(Amsterdam)、Paradiso Clubにおける貴重なアーカイヴ。Blueprint(Voiceprint)が正式再発する以前から、ブート音源が数多く流出。ツアー時には、まだ『Volume Two』はリリースされていなかった。

 SMフリークのための聞き取りのポイントは、
①演奏が『Volume Two』の曲順と入れ替えられたのは、どれとどれ?
②クレジットの曲順に間違いがありますが、どこ?
③アルバムの演目から削られた曲は、何と何?


<補足②>
時系列にピックアップすると、
①1969年2月~3月;ロンドンのオリンピック・サウンド(Olympic Studios)にて『Volume Two』のためのリハ&録音。
②1969年3月29日;オランダ、アムステルダムのパラディソでのギグ。キャプテン・ハドック(Captain Haddock)がライヴ盤を企画して録音したが、グループは非承認。だが、約束は反故にされ、限定100枚(Michael King『Wrong Movements』に依拠)のブート『Soft Machine 69』(1971年?)(UK盤?)が市場に出回る。1989年のドイツ盤ブート『Turns On Paradiso』にも同じマスターが使われた。
③1969年4(5 ?)月;「Moon In June」後半がトリオで演奏され、ロバートの1969年秋のデモに編集される。
④1969年9月;プローブ(Probe)からSoft Machine『Volume Two』リリース。


<補足③>
公式のVoiceprint盤以外に、筆者が確認しているものは、
①『Soft Machine '69』- limited edition (Priscilla Records, UK, date unknown 1971? 1972? ) LP
②『Turns on Paradiso』- (Amazing Discs, Germany, 1988) CD
③『Live in Amsterdam 1969; Il Dizionario Del Rock - (Curcio, Italy, 1992) CD
④『William』- (Aulica, Italy, 1992) CD
⑤『Soft Machine』- (Movieplay Gold, Portugal, 1999) CD
⑥『Live at the Paradiso』- (Turning Point Music, UK, 2002) CD

上から上記<補足③>①~⑥のスリーヴ・デザイン

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Hugh Hopper / Bass
Mike Ratledge / Keyboards
Robert Wyatt / Vocals, Drums

<第37話 Soft Machine 『Volume Two』 Dedicated To You But You Weren't Listening へ>

テーマ : サイケデリック
ジャンル : 音楽

第63話  Rolling Stones 『Their Satanic Majesties Request』 (サタニック・マジェスティーズ) (1967) U.K.

今夜の一曲  2000 Light Years from Home (2000光年のかなたに)


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 ブライアン・ジョーンズの叩きつけるようなピアノの不協和音がテープの逆回転に引き継がれ、曲調がメロトロンに支配されると、ローリング・ストーンズの異端審問が始まる。

 しかしこのアルバムは一体何なんだろう。チャート・アクションはハナマル印だったものの、ローリング・ストーン誌(Feb. 1968)には「ストーンズ、存在の危機!」とまで酷評された。

 ファンたちは、本作(Dec. 1967)が、ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)』(June 1967)の物まねであることを問題視した。しかもコピーの出来損ない扱いだ。「ビートルズがグッド・トリップなら、これはバッド・トリップだ。」とまで吊し上げた。


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 だが、ニューヨーク・タイムズ紙(April 1968)は「イマジネーションの欠如」と切り捨てながらも、一定の評価を下すなど、どのような通知表をつけるべきか迷っていたフシもある。

 発売からまもなく半世紀が経とうとする今、『サタニック・マジェスティーズ』は確固たる地位を確立したように思われる。サイケデリック・ブームに花開いたストーンズ流のアシッド・スペース・トラベル。こいつは痛快だ。

 時代の花形写真家マイケル・クーパー(Michael Cooper)を起用。彼はまさに『サージェント・ペパーズ』のカバーを撮影した人物でもある。ストーンズにとって、初のギミック・カバー。『サージェント・ペパーズ』をモロに意識したようなアルバム写真が、レンチキュラ(lenticular)仕様の3D構造になっている。なかなか採算が取れず、再発ごとに写真だけの規格に戻ったりで、色んなヴァージョンがマニア泣かせ。


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 当時、ストーンズは中心メンバーの三人(ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズ)がドラッグ濫用で刑務所に収監されていた。この曲の詩もミックが刑務所で書いたという曰く付き。うんざりしたプロデューサのアンドリュー・オールダム(Andrew Loog Oldham)にも夜逃げされた。ストーンズ解体の危機にありながら、彼らをつなぎ止めた何かがここにある。

 このアルバムの空気を決っしたのは、ブライアンのメロトロンやダルシマやフルート。だが、彼は本作のコンセプトにはとことん反対だったという不思議譚。ブライアンは、もっとブルース・ルーツな曲を演りたかったんだ。

 だが結果として、悪魔の落とし子のように、覚醒と陶酔を繰り返すシュールな音像が姿を現した。キースやミックこそがキー・パーソンなのは明白だが、ニッキー・ホプキンス(Nicky Hopkins)やジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)の、ゲスト参加を超えた存在感も天晴れだ。


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 そうは言っても、コアなストーンズ・ファンはこれを忌み嫌った。その一方、ストーンズ嫌いの手合いは、本作だけは積極的に評価するという真逆な事態すら生じた。さすが彼らもこれは失敗作だと感じたようだ。

 ストーンズはジミー・ミラー(Jimmy Miller)をプロデューサに迎え、次作の録音に入る。それが『ベガーズ・バンケット』(Beggars Banquet)(1968)だった。彼らはきびすを返して先祖返りする。

 サタニック・セッションで録音されながらも、アルバムより先行リリースされた「この世界に愛を(We Love You)」(Aug. 1968)は、「愛こそはすべて(All You Need Is Love)」(July 1967)と兄弟の関係だと、ジョン・レノンが1970年のローリング・ストーン誌のインタビューに答えている。それを裏付けるように、相互にミックとキース、ジョンとポールがコーラスで参加していたりする。


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 本作のタイトルは、当時、英国パスポートの最初のページに記載されていた 'Her Britannic Majesty's Secretary of State requests and requires in the name of Her Majesty all those whom it may concern to allow the bearer to pass freely without let or hindrance and to afford the bearer such assistance and protection as may be necessary.' のパロディだと言われている。

 日本のパスポートで言うと、『日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。日本国外務大臣』の部分ですね。


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 さて、かつてWeb上にあった「2000光年のかなたに」の動画。ミックが奇妙な帽子被ってメイクして登場。他のメンバーもいかにも不健康。でも不思議なのは『Super Stars in Concert 73』と銘打ってるくせ、何故か死没したはずのブライアンがいたりする。

 これは心霊現象か?はたまた、2000光年のかなたから飛んできたか。くわばらくわばら。でも、ご心配なく。中味はどうやらプロモ・クリップの流用だったようです。これがそのプロモ動画です。




 公式記録によると、「2000光年のかなたに」がライヴで演奏されたのは二回のみ。1989年~1990年のワールド・ツアーと、2013年のグラストンベリー・フェス(Glastonbury Festival)のみです。ですから、1973年に同曲をライブ演奏したという史実はなさそうです。

 長生きしてみると(?)いいこともあるもので、当時のセッションの音源が、幸か不幸か、怒濤のブート・ボックス・セットで明らかになりました。本作のレコーディングは、「She's A Rainbow」の次が「2000 Light Years From Home」、続いて「Citadel」というように、取り憑かれたようにフリーキーになっていったようです。時代を包む空気が今と違いすぎていて、まじめに捉えると発狂寸前になりますね。

 最後になりますが、ザ・ビートルズの曲で、「Scrambled Egg(炒り卵)」と言えば「Yesterday」でした。曲が完成する前にメンバー間で呼び合っていた符牒のようなものです。同じように、ストーンズの曲で「Acid in the Grass」が「In Another Land」、「Flowers in Your Bonnet」が「She's a Rainbow」、「Toffee Apple」が「2000光年のかなたに」だったようです。こうしたトリビアが、いかにもサイケな時代に彩りを添えますね。


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Mick Jagger / lead and backing vocals, percussion
Keith Richards / guitars, backing vocals
Brian Jones / Mellotron, keyboards, guitars, flute, brass, soprano saxophone, electric dulcimer, recorder, percussion
Bill Wyman / bass guitar, percussion, backing vocals, piano; lead vocals on "In Another Land"
Charlie Watts / drums, percussion, tabla

Plus
Nicky Hopkins / piano, organ, mellotron, harpsichord
John Paul Jones / string arrangement on "She's a Rainbow"
John Lennon and Paul McCartney / backing vocals and percussion on "Sing This All Together"
Ronnie Lane / backing vocals and acoustic guitar on "In Another Land"
Steve Marriott / backing vocals on "In Another Land"
Uncredited musicians / strings


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テーマ : サイケデリック
ジャンル : 音楽

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 音楽ネタを中心とした雑記帳です。

 60年代後半から70年代にかけてのワールドワイドなロック、ポップス、プログレ、アシッド、サイケ、フォーク、ジャズロック、ジャズなどの話題を主に、ひっそりメモってます。

 それぞれの記事はその時々のフィーリングで書いていますが、基本形はある曲をきっかけに感じた雑感が題材になっています。

 私は単なる音楽愛好家ですので、記事に関しては、思い込みや勘違いがたっぷりあることかと思います。その点はご容赦願います。もし、お気づきの点があれば、ご指摘下さい。

 個人的に思い入れのあるものを主に綴っていますので、マイナーかつ気まぐれなセレクション、お許し下さい。

 それでは、今宵の音楽夜話におつきあい下さい。

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